2008年11月29日土曜日

三民主義① はじめに


休みを取って上海に行った目的は休暇でして、まあ、遊びに行ったわけですね。
どうせ行くならと、少し下調べをと思って魯迅でも読むか、と図書館に行くと、

ふと、孫文論集なる本に眼が吸い寄せられまして、
これが、読んでみると意外にわかりやすくて面白い。

俄然、孫文だ、ということで、
上海にある孫中山故居』にもおじゃましてきました。

毛沢東や周恩来ほどなじみはありませんが、意外に大きな存在で、共産党からも正式に功績を認められているというか、国父として位置づけられているんですね。共産党と戦った国民党創始者でもあるし、敵同士なのか、と思ったらそうではありませんでした。

旅行中に声をかけてきた中国人の若いコ(社会人3年目だとか)によると、毛沢東ほどえらくはないが、その次くらいに有名で偉い人、だとかで、ただし、何をやった人だ、とかいう詳しい知識はないようでした。その若いコというのは、一人は小学校教師、ひとりは銀行をやめて会計士に転職した会計士とかで、若き女性エリートと言えるような人たちだと思うんですがね。

韓国でもよく声をかけられましたが、中国でも・・・。やはり中国人だと思って、並み居る中国青年をさしおいて私に声を掛けてくるんで、ちょっと微妙なトコなんですがね。

日本でもこれくらいもてたらなあ。ほんま、なんでやねん!!

孫文は近代中国の国父、であると同時に、日本とのかかわりも深く、清朝に追われて日本に逃げていた時代もあったわけで、日本人の支援も受けていて、日本にも神戸に孫文記念館があるんですね。



上海の故居では、福田前首相が訪問したときのビデオがかかってまして、胡 錦濤と並んでガイドの説明を聞いておられる姿がずっと流れてました。

今後、日本と中国、あるいは台湾と中国、地域の経済統合が進んでゆくとして、統合の理念をどんなところに持ってゆくか、というのは、ひとつの課題だと思いますが、まさか共産主義でもないとしたら、孫文の思想なんかが大きく取り上げられることになるかもしれませんな。

てなわけで、『三民主義』でも読んでみますかね。

2008年11月24日月曜日

資本主義と自由② 序章

『国が諸君のために何をなし得るかを問い給うな。諸君が国のために何をなし得るかを問い給え』

本章の序章はこのケネディの有名な大統領就任演説の批判から始まるんですね。


ケネディ。 この米国民のみならず、世界中で人気の高い、多分、本書が62年に出版されたときにはまだ暗殺される前に、ケネディーの、この有名で評判の良かった演説を冒頭で批判するわけで、本書が論争的な書物であること、著者がへそ曲がりで、結構当時としてはトンデモな感じに捉えられただろうこと、がわかります。

『自由人は国が自分に何をしてくれるか問わない、自分が国に何ができるかも問わない・・・。政府という手段を使って何ができるかを考える』。

自由主義の観点から、政府はあくまで手段である、との主張です。明確ですね。

米国には自由を守るために2つの原則があって、それがしばしば破られるようになったとか。その二つとは、

①政府の役割に制限を設けること

②政府の役割は分散させるべきこと。国よりも州、州よりも郡や市で(権力)は行使されることが望ましい。郡など、小さな単位から発せられる命令には引越して逃げることもできるが、政府の命令は逃れることも難しい、つまり、権力を行使される側の自由を守るために、権力の分散が望ましいってこと。①に関連しますな。


本書が扱うテーマは、競争資本主義の役割。

これは、
①経済における自由を保障する制度であると同時に、
②政治における自由を実現する条件でもある

この②は重要ですね。後の章でも、政治的自由と経済的自由について別途説明があります。

この経済的自由、政治的自由、について、評論家があいまいなまま・・・といわれている的にやり過ごされたりするんですが、フリードマンの論旨は明確です。

政治における自由を実現する、とは言ってないんですね。実現する条件である、つまり、経済における自由が無いと、政治における自由は実現できないが、経済における自由があるからと言って、政治的自由が実現できるわけではない、ってことです。今の中国(部分的とは言え、経済の自由は高まった)、戦前の日本、なんかをいメージすれば良いんでしょうな。

で、自由主義を論じる場合に避けて通れないあの議論に、序論で触れています。リベラルって何? というものですな。

リベラルという言葉が米国では19世紀大陸欧州における意味とは(経済政策の点で特に)大きく違っている、19世紀末から、特に1930年以降。それはなぜか、

『自由競争経済の反対論者は、心ならずもこの経済体制に最高の賛辞を捧げる行為をした。すなわち、自由という冠は自分達にこそふさわしいと考えて横取りした』 (シュンペーター)

『19世紀の自由主義者は自由の拡大こそ福祉と平等を実現する効率的な手段だと考えたが、20世紀の自由主義者(米国の)は、福祉と平等が自由の前提条件であり、自由に変わりうるとさえ考えている』。

そして、『真の自由主義者を反動的だと批判したがる』

それは経済分野が顕著だが、政治の分野でも、いわゆる今日の自由主義者(リベラル)が、権力の分散でなく、中央集権的な政府を支持するという点に現れてもいる。

フリードマンが新自由主義、ネオリベラルと呼ぶのは、フツーにリベラルと呼べば、政府の役割を拡大したい人達と同じに見られてしまうからですね。

良い序論ですね。これを読んだだけで、全体の概要がわかるし、大きなテーマ、原則を示し、実際に『真の自由主義者』が現代(当時の)アメリカの経済政策を見ると、どう見えるのか、と読者は興味をそそられるようにできている。

自由を愛する真の良きアメリカ人は本来経済政策をどう考えるべきなのか、

とフリードマンは読者の気持ちにひっかかりができるようにこの序論を書いているわけですな。



資本主義と自由① はじめに


 ミルトン・フリードマンという名前は、経済を学んだことがある人なら、皆知ってるし、そうじゃなくても、新自由主義がどうのこうの言うときに出てくる名前なんで、まあ、聞いたこと位は誰にもあるってトコじゃないですかね。

 先週上海に行った帰りの船で知り合ったフィンランド人の女性も(チョーかわいい)、私が『資本主義と自由』を読んでいたのを取り上げて、フリードマンの名前は知っていると言ってました。

結構読んでみると、フツーです。難しくない。それ、マジッ?って意見もありますが、まともです。

どこがその辺のヘッポコ論者と異なるのか。多分、徹底した理解、徹底した議論、徹底した説明、ということでしょうな。高橋洋一さんが解説を書かれていて、フリードマンは議論がメチャ強くて決して負けなかった、同業者から疎まれるくらい強かったそうです。本書を読むとなんとなくそれがわかるし、時代を経てみて、結局、フリードマンが正しかったと思える点は多々ある、って感じじゃないでしょうか。

最近、金融危機が来て、新自由主義への反省みたいなコトも言われていて、もうフリードマンはアカン、みたいな暴論から、修正すべきだみたいなテキトーなハナシまで、経済評論やコメントにも変な枕がつくようになって来て、オイオイ、ホンマか、と突っ込みたいトコですな。

とすれば実際に読まねばならぬ、ってわけで『資本主義と自由』です。

で、まあ、読んでもすぐ忘れるということもあるんで、ちょっとメモ代わりに、ネタとして覚えておくとよさげなハナシを原典に即してここで書いて行こうかと思います。



他には、アダムスミス、孫文、ケインズなんかを考えてますが、ケインズはちょっと、とっつきにく過ぎるのででやめるかも。