2008年12月15日月曜日

日本の食と農① (資本主義と自由関連)

『日本の食と農』という本について少し。

『経済的自由』、という観点で読むと面白いからなんですが、本書は主にJA、つまり農協ですな、と、農地制度について書かれています。かなり過激な書です。

著者の主な主張に、

1.日本は零細農家保護策が強すぎて、先進農家の参入を阻んでいる
2.農地の流動化が進まず、農業に長けたものに農地が集積するという市場経済の競争メカニズムが働いていない

ことになっていて、意欲と能力のある人材の新規参入を阻んでいる→農業の低迷につながっている、というのがあるんですが、その背景には、

3.JAの支配下で先進農家が育たない仕組みになってしまっていること、
4.農地制度がないがしろにされていること

がある、とか。

JAは実質的に独占体制(農家全員加盟)になっていて、JAに入らずして農業ができない状況にあって、そのJAは、行政(農水省)との実質一体化していて補助金給付から減反政策指導まで政策実行の受け皿になっている。

独占体制にもかかわらず、あるいは独占体制だからこそ、零細農家保護中心の偏った施策が許されていて、たとえば採算度外視で共同利用施設として籾の乾燥貯蔵施設を安く貸すなどして、零細農家を補助、依存させる状況を生じている。結果的に、先進農家に不利な状況が生まれている。自前で苦労してコストをかけてやるにしても、JAに助けてもらっている人と競争するわけで、コスト的に不利になるわけでしてね。

だれか農家が力をもって、零細農家を統合してゆくようなことになると、JAの支配力も、農水省の影響力も、弱体化し、ひいては選挙集票力も弱くなってしまうので、できるだけ農家は零細でいてもらった方が良いということもあるんでしょうな。

ここにも、フリードマンの指摘する状況が存在するわけですな。つまり、経済的自由が阻害されることによって、政治的自由の無い状態が生じています。零細農家は、経済的にJAの支配下に置かれ、,引いては農水省に依存させることで、他に政治的選択肢が無い状況に置かれる。JAの支持するスローガンを無自覚に訴え、JAの支持する政治家に投票することになるってことですな。そもそも、農家はデモに参加したりはするが、政治に無関心な人が実は多い、というのが著者の説明なんでしてね。JAに逆らうと農家として生きていけないのでやっている。

こういう状況は、良く知られていることかも知れませんが、経済的自由と政治的自由、という形で論じたところが、フリードマンの偉いところなんですな。たとえ善意でも、つまり零細農家を保護しなきゃ、という善意によって経済統制、保護政策を行ったとしても、政治的自由が損なわれる。自由という近代社会の重要な価値が損なわれることになるのだ、ということでして、まあ、

米国では、そう言うとハっとする人がいるってことで


残る、農地については次に書きます。


















2008年12月11日木曜日

資本主義と自由③ 第1章 経済的自由と政治的自由

『政治的自由』というと、こまかに説明はできないにせよ、ある程度理解はできますな。権力による特定の政治思想弾圧だとか、政治活動に制限が無いこと、とかいったイメージですかね。

『経済的自由』というのは、自由放任というか、政府の介入が無いこと、自由に商売できること、まあ、価格を自由につけられる、とか、誰とでも取引できる、とか。だれそれしかこの商売はしちゃだめだ、とかこのやり方以外はだめよ、と政府が決めない、あるいは政府でなくても何者か権力者が制限をかけていないこと、だとかのことでしょうな。共産主義は政府が経済をコントロールするわけで、一般的には経済的自由が無い、体制なわけで。

意外と、この『経済的自由』なるもの、政治的自由と関係ありまっせ、というのが本章のテーマです、ってか、切っても切れない関係にあるんだぜ、というのがフリードマンの主張です。

そもそも、経済的自由の無い世界で、政治的自由が存在できますか、ってことでして、

たとえば、社会主義体制下で、社会主義を批判することはできないでしょう。なぜならば、社会主義下では社会主義権力が経済をコントロールするというたてつけ上、社会主義権力がすべての国民の雇用主になるわけで、アンタ、雇用主に逆らえますか?ってことですな。

自衛隊幹部が、政府見解と異なる意見をおおっぴらに言えば、クビになりますな。ある意味、みんなが役人になるのと同じことになるわけで、経済的自由の無い体制というのは、そう、政府が経済をコントロールする仕組みというのは、政治的な自由も制限されてしまう、ってことよ、とフリードマンはおっしゃるわけです。

経済的自由のない体制で、政治的自由はありえないんだぞ、経済的自由はめちゃ大事、軽視してはいかんってなわけで。

自由な経済=自由な市場があるから、自衛隊をクビになっても、民間で雇ってもらうことができるんですな。社会主義体制だったらお国に見捨てられたら路頭に迷うぜ。少数民族で差別されていても、パン屋に行って、だれがこの小麦を栽培したか、黒人か、共産党員か、自衛隊をクビになった人か、なんて誰も気にしない。安くて良けりゃ買ってもらえる。『市場は人を自由にする』ってんですね。

市場が差別を助長する、なんて主張を少数民族の側で主張する人が多いが、それは逆やろ、とか

ただ、体制としてみれば、歴史の中で、経済的自由が保障されても、政治的自由が無いことはあり得るとフリードマンは言ってまして、戦前の日本とかですが、その辺がややこしいトコですな。今の中国なんかもそれに近いかもしれませんね。

まあ、何でこんな議論を必死になってフリードマンがしているのか、今から振り返ると、変な感じもするわけですが、当時はリベラル全盛で大きな政府やら政府の介入やらがはやっていて、フリードマンとしては危機感を感じていたということなんでしょうな。

今や、フリードマン流が主流になってしまって、大きな政府問題、増税やら財政支出拡大が、自由の問題として普通に語られたりするんですね。増税論者はあなたのポケットからお金を奪う、経済的自由を損なう、ってなわけで。減税して政府の手からお金を市民に戻して、市民が自分の意思で使えるお金を増やす経済的自由を拡大する、というハナシ方ですな。政府支出の拡大は国民の自由を損なうのだ、とか、初めて聞くと良くわからないような主張ですが、結構アメリカには、そう考えている人が居そうですな。