本章の序章はこのケネディの有名な大統領就任演説の批判から始まるんですね。
ケネディ。 この米国民のみならず、世界中で人気の高い、多分、本書が62年に出版されたときにはまだ暗殺される前に、ケネディーの、この有名で評判の良かった演説を冒頭で批判するわけで、本書が論争的な書物であること、著者がへそ曲がりで、結構当時としてはトンデモな感じに捉えられただろうこと、がわかります。
『自由人は国が自分に何をしてくれるか問わない、自分が国に何ができるかも問わない・・・。政府という手段を使って何ができるかを考える』。
自由主義の観点から、政府はあくまで手段である、との主張です。明確ですね。
米国には自由を守るために2つの原則があって、それがしばしば破られるようになったとか。その二つとは、
①政府の役割に制限を設けること
②政府の役割は分散させるべきこと。国よりも州、州よりも郡や市で(権力)は行使されることが望ましい。郡など、小さな単位から発せられる命令には引越して逃げることもできるが、政府の命令は逃れることも難しい、つまり、権力を行使される側の自由を守るために、権力の分散が望ましいってこと。①に関連しますな。
本書が扱うテーマは、競争資本主義の役割。
これは、
①経済における自由を保障する制度であると同時に、
②政治における自由を実現する条件でもある
この②は重要ですね。後の章でも、政治的自由と経済的自由について別途説明があります。
この経済的自由、政治的自由、について、評論家があいまいなまま・・・といわれている的にやり過ごされたりするんですが、フリードマンの論旨は明確です。
政治における自由を実現する、とは言ってないんですね。実現する条件である、つまり、経済における自由が無いと、政治における自由は実現できないが、経済における自由があるからと言って、政治的自由が実現できるわけではない、ってことです。今の中国(部分的とは言え、経済の自由は高まった)、戦前の日本、なんかをいメージすれば良いんでしょうな。
で、自由主義を論じる場合に避けて通れないあの議論に、序論で触れています。リベラルって何? というものですな。
リベラルという言葉が米国では19世紀大陸欧州における意味とは(経済政策の点で特に)大きく違っている、19世紀末から、特に1930年以降。それはなぜか、
『自由競争経済の反対論者は、心ならずもこの経済体制に最高の賛辞を捧げる行為をした。すなわち、自由という冠は自分達にこそふさわしいと考えて横取りした』 (シュンペーター)
『19世紀の自由主義者は自由の拡大こそ福祉と平等を実現する効率的な手段だと考えたが、20世紀の自由主義者(米国の)は、福祉と平等が自由の前提条件であり、自由に変わりうるとさえ考えている』。
そして、『真の自由主義者を反動的だと批判したがる』
それは経済分野が顕著だが、政治の分野でも、いわゆる今日の自由主義者(リベラル)が、権力の分散でなく、中央集権的な政府を支持するという点に現れてもいる。
フリードマンが新自由主義、ネオリベラルと呼ぶのは、フツーにリベラルと呼べば、政府の役割を拡大したい人達と同じに見られてしまうからですね。
良い序論ですね。これを読んだだけで、全体の概要がわかるし、大きなテーマ、原則を示し、実際に『真の自由主義者』が現代(当時の)アメリカの経済政策を見ると、どう見えるのか、と読者は興味をそそられるようにできている。
自由を愛する真の良きアメリカ人は本来経済政策をどう考えるべきなのか、
とフリードマンは読者の気持ちにひっかかりができるようにこの序論を書いているわけですな。
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